発表

1B-004

鄭発育教授の足跡 その1:日本心理学と台湾心理学の架け橋として

[責任発表者] 櫻井 正二郎:1
1:高雄医学大学

はじめに
 国立台湾大学は台湾台北市にある台湾屈指の大学です。国立台湾大学の前身は台北帝国大学で、台北帝国大学は1928年に第7番目の帝國大學、また植民地での京城帝国大学に次ぐ二番目の帝国大学でした。
台北帝国大学は、1928年3月16日、台北帝国大学勅令第30号により設立。初めは、文政学部、理農学部の2学部。また、文政学部に 国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法7講座を設けました。心理学講座には、教授に飯沼龍遠氏、助教授に力丸慈圓氏、助手に藤澤茽(しげる)氏らが就任しました。飯沼教授は赴任前に台湾総督府より二年間ドイツへ視察に派遣され、当時最先端の機器の購入に役立てたと推察されています(櫻井、2013)。また、1933年に心理学講座の実験室が竣工し、そこに購入した機器を設置したもようです。
台北帝国大学は1945年日本敗戦とともに中華民国政府に接収され、同年11月15日に国立台湾大学となりました。接収前には、心理学講座では、1941年に飯沼教授が退官、力丸氏が教授に、藤澤が助教授にそれぞれ昇任した以外ほぼ開校当初のままでした。しかし、中華民国政府に接収された際、農学、工学、医学などの学部の中で、中華民国政府に有用であると判断された少数教師が「留用日僑」として残留した以外、その他の日本人は1946年4月までにはほぼ全数日本本土に引き揚げました。力丸、藤澤両氏もその時引き揚げたと思われます。
接収当時中華民国政府は、国立台湾大学に心理学専攻の教授を派遣せず、心理学講座の実験室は哲学系の教授室になり、機器類は空き部屋の隅に片付けられたということです。1946年末、台湾出身、かつて東京帝国大学大学院で心理学を専攻し戦争中は中華民国政府で各種役職を務めた「蘇薌雨(本名蘇維霖)」が哲学系の教授に招聘されました。蘇教授は、同じく台湾出身、京都帝国大学で心理学を専攻した鄭発育講師を招き、哲学系に「心理学教室」を開設しました。1949年には、アメリカ留学女性博士「張肖松」教授、元北京大学代理校長国共内戦敗戦のため台湾疎開した「陳大齊」教授などを迎え入れ心理学系を設立しました(鄭、1998)。
本調査は、この台北帝国大学心理学講座から国立台湾大学心理学系の転換期、及び、その後40年近く台湾の心理学の発展に尽力した、鄭発育教授の足跡を紹介しようと思います。
方 法
 本調査では、データベースに残された各種公文書、鄭発育教授の学術論文、記念文集などある本人と関係者の記述、遺族や関係者の証言などを併せ、鄭発育教授の足跡を明らかにし、また戦前の日本心理学が戦後の台湾心理学にどのような影響を及ぼしたか検証しました。
結 果
 徐、呉と余(1998)の調査に依ると、鄭発育教授は1916年10月16日台南市の小児科医の長男として生まれました。両親とも裕福な家庭で、鄭発育幼年期も当時の台湾漢民族としては恵まれた環境で育てられた様です。公学校卒業後、台湾人が進学する台南第二中学に入学(在台南の日本人は第一中学へ進学)。1934年愛知県の旧制八高に進学、八高唯一の台湾人学生となりました。1937年八高卒業、1939年京都帝国大学文学部哲学科入学、1941年12月卒業。その間の1940年に結婚、1942年4月京都帝国大学大学院に入学。1946年1月時局混乱のため学業を中断し台南へ帰国。同年2月国立台湾大学哲学系に講師として招聘され、年末に、蘇薌雨教授の招きに応じ哲学系内に蘇教授と共に心理学教室を開設しました。
鄭発育教授は京都帝国大学では、知覚心理学関係、特に両眼立体視の研究をしていた模様で、手元にある卒業論文と思われる論文には、「視差に依る奥行に及ぼす図形的影響」というタイトルが付いています。
鄭発育教授は1952年に3本台湾先住民関係の論文を発表しました。この3本の論文のタイトルの日本語訳は、台湾先住民の色彩好悪、台湾先住民の知能検査結果、台湾先住民各部族のロールシャッハ・テストの差異。その後の10年余りは、心理テスト関連の論文を15本以上単独または連名で発表しています。
鄭発育教授は、1970年に脳出血を患って以来、論文は途絶え、調査の結果最後の学術論文は、1972年のPerceptual defense in the choice reaction time.です。
考 察
鄭発育教授の1952年の論文は、台北帝国大学心理学講座での研究の追試の性質が見受けられます。台北帝国大学心理学講座では、先住民関連の研究に重点を置き、台北帝国大学哲学科研究年報に7本の論文を載せていますが、内6本が先住民に関するものです。特に、1936年の藤澤論文は、タイトルが色彩好悪と色彩記憶で、鄭発育教授の論文はその前半の部分です。
終戦直後台湾は混乱期が長く、特に1949年中国内戦に破れた中華民国政府が台湾へ撤退して、その後朝鮮線勃発でアメリカの救援物資が入ってくるまで、台湾全土で各種物資が欠乏し、大学も同じような状況でした。鄭発育教授は国立台湾大学心理学系設立当時、以前行っていた知覚の研究は続けられる状況になく、台北帝国大学心理学講座遺留品を使い、研究を進行していたと推察されます。
徐他(1998)には、鄭発育教授が技師を指導して、台北帝国大学心理学講座遺留の機器を改造して、実験に使用していたとあります。只、まだどの実験に使用され、どの論文に発表されていたのかは調査中ではっきりしておりません。また、国立台湾大学心理学系設立当時の先生方は、日本と関係がある方が多く、今後も調査を継続していく予定です。
引用文献


詳細検索