発表

1B-002

元良勇次郎の修養論(1)―その展開と特徴―

[責任発表者] 鈴木 聡志:1
1:東京農業大学

目 的
 わが国では「修養」の語は明治初期にcultivateやcultivationの訳語として使われた。明治30年代中頃から修養が流行したが,その背景には日清・日露戦争を通して日本人の国粋主義が高揚し,武士道や漢学を見直す動きが現れて修養が再認識されたことがある。元良勇次郎は1903(明治36)年から亡くなる前年の1911(明治44)年まで修養に関する多くの論文を残した。本研究では元良の修養論の展開を検討し,またその特徴を考察する。

方 法
資料 元良勇次郎の論文で題に「修養」の語が含まれる12の論文(表)。これらは大半が講演に基づく。
手続き 資料を発表順に読む。この時,それぞれの論文内の体系性と論文間の関係に注意を払う。

結 果
修養論の展開 元良の修養論は,非体系期(1903-06),体系化期(1907-08),発展期(1910-11)の3期に分けることができる。非体系期では講演により内容が異なる。体系化期の3つの論文はほぼ同じ内容で,この時期修養について独自の理論が形成される。発展期では修養理論の一部が発展する。
元良の修養理論 体系化期における「心理学上より見たる品性の修養」が元良の修養理論を最も詳しく論じているので,これを解説する。この論文は1907年の師範学校長会議での講演を基に『教育時論』に7回に分けて掲載されたもので,後に『論文集』(1909)に再録される。
 彼の主張を一言で言えば,品性は望んで得ることができるということである。これは教育よりも遺伝が大切とする進化論と,運命を変えることができないから品性の教育・修養は不可能とする東洋思想の一派への批判として主張される。その根拠は,心の活動,特に意志や高等な情緒を練習すれば,それは身体の他の部分の活動に変化を及ぼすことができる,つまり遺伝の欠点を補うことができるということであり,さらにその理由として心身発達の起源から考えれば身と心は本来は一体であること(知行合一,心身合一)が挙げられる。
 元良によれば因果関係だけで決まる自然現象と有機体の活動が違うのは,後者では中枢に生じた動機が満たされるまで抹消が活動することである。中枢で生じた動機Aが抹消の活動Bを生み,今度はBが原因となってCを生み,さらにCが原因となってDを生む。抹消の活動がAを満足させるまで中枢ではAが持続する。動機を満たすことが成功しなければ動物は二度三度と繰り返す。この意志の実行が「試行錯誤の方法」で,これにより中枢の動機と末梢機関の作用がよく連絡してくる。このことを元良は生物進化の一大原因と言う。
 元良は青年期の品性練習の方法も試行錯誤がよいとして参禅を挙げるが,これは多くの人には難しいので,学生にはなるべく自治に任せて失敗によって自ら学ばせるのが良いとする。そして,生まれながら品性は完成しているものではない,意志の活動による試行と錯誤の方法によって奮闘して少しずつ修養できるものである,と結論する。
以上が元良の修養理論の大筋であるが,論の途中で意志活動,知行合一,技芸教育についても述べられる。意志活動は目的観念,動機,批評判断から成るとするが,発展期の「意志の修養」では目的観念と動機から成ると修正される。

考 察
 体系化期は,元良が『哲学雑誌』に付録「心理学」を連載していた時期(1906-08)と重なる。この「心理学」を基礎にして後に『心理学概論』が書かれるので,元良はこの書物の一部として修養理論を構築したと思われる。
 元良の修養論をこの頃の代表的な修論読本である新渡戸稲造の『修養』(1911年発行)と比較すると,第一に,元良の修養論は理論的である。これは体系化期以降に顕著で,理論化を避けた新渡戸と対照的である。第二に元良の修養論は修養をする者として学生が念頭にあっても,学生以外の者はあまり念頭にない。第三に元良の場合,教育者や宗教者や知識人を対象とした講演や談話が多い。つまり青年を代表とする修養をする者よりも彼等の指導者へ向けられている。元良の修養論は当時の数多くの修養論の中では特異な場所に位置づけられるようだ。

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