演題

車数えて車無し

[演者] 小出 宣昭:1
1:株式会社中日新聞社代表取締役社長

数車無車。中国の古典『老子』に出てくる言葉である。車数えて車無し、と読む。これだけでは何のことか分からない。 江戸中期の儒学者、荻生徂徠による大意はこうだ。大八車や荷車などの「車」をじっくり観察すると、輪っぱ、車軸、引き手、荷台などさまざまな部品に分解することができる。現代の自動車ならハンドル、ブレーキ、バックミラー、エアコン、ボディーといった具合だ。そうした部品に目を向けていると、ふと気付いたとき「車」は消えてしまっている。 全体としての「車」は、目に見えず、手で触れることのできない抽象概念なのだ。命とか愛とか、情熱とか魂とか、そういったものに似ている。 人間の場合も同じである。手や足、目、鼻、口、耳、胃、肺、腸とさまざまな部品に分けられるが、そればかり見ていると、全体としての「人間」がなくなってしまうのだ。 高度化する現代医療の現場では、患者の顔を見ず、ひたすらパソコン画面を見つめながら、部品のデータで診断しているような医師もいると聞く。精密に「車を数えて」いるのだろう。 だが、ふと気付くと肝心の「人間」は消えている。患者の顔も見ずに部品のデータだけで、どうやって目に見えない「人間」という抽象的な命を助けることができるのだろう。 この世の中、大切なものほど目に見えない。例えば春だって、秋だってそうだ。どんなに優れた画家も、春や秋そのものを描くことはできない。一輪の花を描くことで、目に見えない「春」をいかにキャンバスに招き入れるか、それが芸術なのだ。花びらやおしべ、めしべ、茎などを正確に写し取るだけでは「春」は描けないのだ。 けがや病気と格闘し、目に見えない「命」を紡ぎ出す医師の仕事は尊い。一方で、数車無車の落とし穴にはまっていないか、いま一度省みていただきたい。部品の集まりではない、「人間」を救ってほしい。
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